2026年 01月 16日
そとに出ること |
肘をテーブルにつくな、
咀嚼するときは口を閉じる、
口の中にものがあるときには喋らない、
必要以上にものを頬張らない、
というようなことを食事のたびにうるさく躾けてきたはずなのに、犬食い、というような作法を見ることがある。
あきらに、どうしたの、外でそんなふうに食べているの、と注意すると、外では行儀よくしているらしい。
ここでそんな作法していると、そとでばれるものなのよ、とわたしはうるさい。
大学時代、他人と生活をともにすようになって、ルームメイトが皿を洗わないとか、電子レンジが汚れているとか、ひとが音を立ててものを噛むとかいうことに気がついて、ママが躾けてきたのはこういうことかとわかったよ、と納得していたのに、帰ってきたら、そういう意識が緩んできたかのようなのだ。
まるで野生化していくみたいな。
食事をする姿を心配したのは、ただそれだけのことでなく、ほとんどともだちに会うようすでもなく、孤独に慣れていくようなあきらを見ているのが不安だったのだ。
そんな時間は過渡期に過ぎなのだろうと思いたくても、このままこの子はずっとこのまま階下で時を過ごすことになるのではないかとこわかった。
なにもかもに不精になって、それがあたりまえと思うようになるのではないかとこわかった。
幸いなことにあきらにも職が見つかり、そこでかわいがられていて、昼食に連れ出してくださることも多いらしい。
かしこまるような席ではなくても、軽食といったものを分かち合うときも、ひとと食事をともにするとき、人柄や育ちが露わになるものだと思う。
口に入らないものは皿の上で切って食べる、
というのは常識だが、なにもピッザやハンバーガーを手掴みで食べるのがいけないわけではない。
フライドチキンなど、指でつかんで食べてなにが悪い。
無数に並んだフォークやスプーンの使い方がわからない、なんてどうでもいい。
同席するひとを不快にしない最低限のマナーを言っている。
あきらに職が見つからないあいだ、わたしたち以外にはほとんどひとに会わないでいた。
そのあいだにそういうマナーに鈍感になっていった気がした。
近年夫はオフィスを閉じて、家で事務を行うようになり事業も縮小するにつけ、ひとに会う機会が減った。
週に一度、同年代の夫に似た個人経営者が集う昼食会にも出席を控えていた。
政治情勢についても意見を交換するし、地元の情勢についても新しいことを知り、友人のいない夫には刺激される格好の場だ。
ひとの名前を忘れるとか、説明したことをうまく表現できなくなった、などという思考能力がこのごろはどうもいままでとは違う、という意識があって、そういう場所に行きづらくなったというのである。
わたしのせっかちな気性は相変わらずで、夫になにを食べたいの、とか、今夜のNuggetsの試合は何時に始まるの、ということを尋ねて、即答されないと聞き返す。
夫には聞こえているのだけれど、返答に時間がかかるようになった。
このごろはそういうことなのだ、と返答を待つ時間が惜しくて次の作業にかかると、遅れて返事が来る。
そういう様子を見ているみあは、わたしが焦れているのを嗤う。
家族やみあのともだちとゲームをしていると、わたしの順がくると決断が素早くて、そうではない者を急かす。
家の外でのひととの接触が少なればなるほど、ますますそうなっていくのではないのか。
夫は自ずから事業を立ち上げてきたひとで、プライドが高いのもわかる。
こどもたちがある分野では夫の知識に勝る、ということを認めざる得ない場合も増えてきた。
夫の昼食会の面々は同年代だから、皆一匹狼でやってきたひとだから、案外夫と同じ思いを秘めているのではないかと思う。
ともだちと話をしていても、夫らにはともだちがほとんどいない、と聞くのは頻繁である。
背中を押して、きょうは昼食会へ行かなくちゃ、としつこく勧めれば、行ってよかったとすがすがしい顔をしている。
22歳のあきらだって、ひと社会から離れれば行儀に構わなくなるのだ。
ひとは社会に属して生きていく。
ひとりの時間が好きなわたしも、ときどき集うカナスタは愉しいし、ジムで顔見知りのひとらと挨拶程度の話をするにも癒される。
きょうは何をしたんだか、と、一日家族のおさんどんに暮れる日も、世話を焼く相手があってのことなのだ。
あきらに職が見つかってうれしい。
職そのもの、よりも、当たり前に起床して、出勤し、お天道様の下で外気を吸って、ひとと会い、話をして、彼なりにできることをして、お腹を空かして帰宅して、きょうはこんなことがあった、こんなことをした、と生き生きと語るのがうれしい。
ひとは常にひとと共存することで成長する。
とくに若者はそうだと思う。
恋だってしなくちゃいけない。
ひとに生まれた喜びも痛みも悲しみも体験しなくちゃいけない。
ひとりで過ごす時間も大事だけど、それだけでは足りない。
ひとと交わることも絶対必要だ。
植物でさえも、常にポジティブに話しかけられていると、そうでないものよりも青々として元気がいいと聞いたことがある。
by ymomen
| 2026-01-16 02:59
| 家族
|
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Comments(4)
仕事を辞めてから、相手あっての自分、というのを実感しています。なんというか、そこで起きる全てのことにリアルタイムで対応していくライブ感とでも言うんでしょうか。そういうものから取り残されていく感じを、随分感じます。
引退して平和と言えば平和ですが、追い風だけだと人は失墜してしまうような気も時々します。難しい匙加減です。
引退して平和と言えば平和ですが、追い風だけだと人は失墜してしまうような気も時々します。難しい匙加減です。
4
> nanamin_3さん
仕事をしたこともありますが、こどもができてからは専業主婦でいて、ななみんさんのおっしゃるような、世の中についていくというようなことから取り残されているというか、自分は常に規格から外れているのではないかというような不安や焦りがありました。
自分でそうなのだから、常に就業なさっているかたが引退なさると、ほっとなさると同時に、つかまっていたものに手ごたえがなくなったような心もとなさはあるでしょうね。
隠居生活に入るとなお生き生きするひともいるけれど、鬱になって焦点を失うという話も聞きます。
夫は若いころから40歳で引退して悠々と暮らしたいと言っていたけれど、このひとは生きている限りなにかの仕事にかかわっているほうが老うタイプだと思います。
わたしはというと、自分がいままでやってきたことを続行していけばいいので、そういう意味での葛藤はないのだと思います。
仕事をしたこともありますが、こどもができてからは専業主婦でいて、ななみんさんのおっしゃるような、世の中についていくというようなことから取り残されているというか、自分は常に規格から外れているのではないかというような不安や焦りがありました。
自分でそうなのだから、常に就業なさっているかたが引退なさると、ほっとなさると同時に、つかまっていたものに手ごたえがなくなったような心もとなさはあるでしょうね。
隠居生活に入るとなお生き生きするひともいるけれど、鬱になって焦点を失うという話も聞きます。
夫は若いころから40歳で引退して悠々と暮らしたいと言っていたけれど、このひとは生きている限りなにかの仕事にかかわっているほうが老うタイプだと思います。
わたしはというと、自分がいままでやってきたことを続行していけばいいので、そういう意味での葛藤はないのだと思います。
momenさん、おはようございます。
読んでいて母として、妻として家族を心配したり、想う気持ちをひしひしと感じました。
でも子供って親が思っているよりもずっと色々考えたり、感じたりして試行錯誤しているのですよね。
人って成功してばかりよりも失敗を積む方がずっと人徳のある人になる気がしています。
うちの娘が結婚した時、子を授かった時、大丈夫なのかと心配しましたが今ではそれが杞憂だったとホッとしています。
もう随分前ですが(10年以上)娘が私の母に悩み事を打ち明けたら、母から“大丈夫、Cちゃんだから大丈夫!”とおまじないのように言われて、それがずっと支えになっていると言っていました。 人の何倍も心配性の母なので意外でしたが、さすがだな、って思ったし 私もそういう風になりたいなと。
私もほとんど家に籠る事が多いし、それが心地よいのですが、やはりmomenさんの仰る通り、たまには外に出たり、人と関わってバランスを取る事って大事だなって思います。
読んでいて母として、妻として家族を心配したり、想う気持ちをひしひしと感じました。
でも子供って親が思っているよりもずっと色々考えたり、感じたりして試行錯誤しているのですよね。
人って成功してばかりよりも失敗を積む方がずっと人徳のある人になる気がしています。
うちの娘が結婚した時、子を授かった時、大丈夫なのかと心配しましたが今ではそれが杞憂だったとホッとしています。
もう随分前ですが(10年以上)娘が私の母に悩み事を打ち明けたら、母から“大丈夫、Cちゃんだから大丈夫!”とおまじないのように言われて、それがずっと支えになっていると言っていました。 人の何倍も心配性の母なので意外でしたが、さすがだな、って思ったし 私もそういう風になりたいなと。
私もほとんど家に籠る事が多いし、それが心地よいのですが、やはりmomenさんの仰る通り、たまには外に出たり、人と関わってバランスを取る事って大事だなって思います。
> Ziggyusさん
ひとの言葉は軽いようでも、確かにまじないに似た効果があると思います。
とくにお母様のように、お孫さんを想う言葉にはそういう力があると思います。
そんなふうに親身に心配するひとが常にいるひとは、そういう力に守られているのではないでしょうか。
こどもたちが苦しんでいるとき、親もつらいですが、こういうことわが子の肥やしになるのだから、と見守るしかないですね。
いっそ離れて暮らしていれば、いたずらに親が甘やかすこともなく、ひとりで苦しんでそれも本人のためにはいいのかもしれませんけど。
ziggyさんもまたそんなご心配をなさったのですね。
聡明でできないことなんてあるかしら、という娘さんにそんなふうに心配なさったことがあるなんて知りませんでした。
ひとの言葉は軽いようでも、確かにまじないに似た効果があると思います。
とくにお母様のように、お孫さんを想う言葉にはそういう力があると思います。
そんなふうに親身に心配するひとが常にいるひとは、そういう力に守られているのではないでしょうか。
こどもたちが苦しんでいるとき、親もつらいですが、こういうことわが子の肥やしになるのだから、と見守るしかないですね。
いっそ離れて暮らしていれば、いたずらに親が甘やかすこともなく、ひとりで苦しんでそれも本人のためにはいいのかもしれませんけど。
ziggyさんもまたそんなご心配をなさったのですね。
聡明でできないことなんてあるかしら、という娘さんにそんなふうに心配なさったことがあるなんて知りませんでした。


