2024年 08月 01日
十字架を背負うひと/オリンピック観戦の日々 |
信号待ちの交差点に、大きな十字架を背負って歩くひとがいた。
え、と茫然として、信号機の色が変わって前の車が動いてそれにならった。
バックミラーを見たら、もう十字架はない。
それから数日して、こんどは反対の方向に停車して信号待ちしていたら、また彼が歩いているのを見た。
その数分前にスーパーマーケットで季節の野菜や果物を保存する瓶を密封するキャップを手に取っていたら、後ろから、”世界はもう危ないからね、自分で食料を確保しなくてはいけないよ”と見知らぬひとに声をかけられて、そんな深刻な理由でキャップを品定めしていたのではないので、ぎょっとしたばかりだった。
十字架を背負うひとをまた見つけたとたんに、数分前のできごとを思い出したのは、考えすぎにしても、なんだか暗示めいているみたいであった。
それが誰なのか、彼の言いたいことは何なのか、わからない。
どこかの教会のデモンストレーションなのかもしれない。
日々オリンピック観戦の夕べ。
NBCのダイジェスト版を観るので、アメリカ贔屓になるのは仕方がない。
開会式を批判しても、選手に非はない。
観客に有名人を見つけてカメラがズームアップするのが頻繁で辟易している。
そんな時間を、パフォーマンスそのもの、あるいは他国の選手の活躍の報道に充ててほしい。
すでにスポーツを職業にしているひとがオリンピックという場所で競うのには反対だ。
NBAの選りすぐりの選手が、どこの国と対抗してなんの意味があろうか。
アマチュアとプロのスポーツマンシップはどちらも聖域にあると信じたいが、境界を定めるべきではないか。
すでにスポーツで巨額の富と名声を得ているひとびとは、そうでないアマチュアの選手にオリンピックという聖域をゆだねるべきではないか。
オリンピックが世界中のどこで開催されても、そこが即興ハリウッドになるのは嘆かわしい。
オリンピックは、誰にもある試練のなか、地道に日々練習を重ねる選手のためにある。
自信も勝負のうちなのだろうが、それがあまりにも露骨で容赦ないのも延々と見せつけられると不快なものだ。
勝負には謙虚さが伴わなければ、と信じるのは日本人だからだろうか。
勝負には、どんな計算間違いも事故もありえる。
彼らは勝って幸いだったが、いささか度が過ぎれば傲慢と見られるほどなのは、ほかの選手や親近者の目には不快な印象があったといわれても反論できない。
良く言えば無邪気だが、ある意味ではそういう無神経さが、アメリカ気質として煙たがれるのではないか。
と、辛いことを書いたが、そういう彼らもまた血のにじむほどの訓練を重ねてそこにいるのは承知である。
ここで編集されたオリンピックしか観ていないので、他国の事情を知らないが、母国と合衆国を応援しながら憂える思いも抱えている。
by ymomen
| 2024-08-01 01:38
| アメリカの季節
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