2024年 07月 23日
化学の試験がある日 |
きょうも化学のクラスは休講しようと思ってカレンダーを見たら、試験がある日で、これをパスしないと卒業できない。
だけど、もうほとんどこのクラスには出てなくて、テキストブックを開いた覚えもない.
でもこれから数時間で教科書のななめ読みをするのと勘で試験はなんとかなるかもしれないという無茶な企みをしながら、どうしてこんなことになったのかと自分を呪っているところで目が覚めた。
夢のなかのわたしは高校生である。
焦りは生々しくて恐怖に近い。
きのう、あきらがアパートに戻る準備をしていたら腹痛を訴え、ふつうではない苦しみようで、それが収まって出発した。
アパートまで40分、というところでなんだかまたおかしい、と腹痛が戻り、帰り着いた頃には再度耐えられないほどになったと電話があった。
盲腸で苦しい経験をした夫は、もしや、と救急病院に行かせ結局はその恐れもないという診断で、あきらの痛みも落ち着いたのだけれど、こういう場合は最悪の事態を想像して、待ってもいられなく、いてもたってもいられない。
ともかくあきらのところへ行くと支度を始めたわたしに手を焼いた夫がすぐに出発するや、1時間後には病院のあきらから、小康状態の声を聞いてやっと安心してひきかえした。
それからもあきらの痛みが再発するかもしれない、としばらく眠れなかった。
このごろは医師の診断もあてにならない、と母の疑いは続いた。
そんな夕べだったから、こんな夢を見たのかもしれない。
みあに、あきらに、危険を察知するとき、夫もわたしも心配するが、青ざめてともかく行動に移ろうとするのはわたしで、それに気づいて夫が先回りし、とりあえずの無事を確認すると夫はすっかり安心しても、わたしはしばらくガードを緩めない、というのが長年のパターンのようだ。
本人たちの前では、夫は動揺を見せない。
彼はわたしの前ではかなりおろおろしていたのに、こどもたちの前では、わたしだけがよじれるように気をもんだかのように装う。
ふたりともまだ同居していたころ、みあの帰りが遅いと、爪を噛むように心配していたのは夫のほうなのに、”ママが心配してたよ”と翌朝みあに話していることも度々あった。
なんなのよ。
みあに、心配して眠れなかったのはパパのほうだったのよ、とばらしたら、笑っていた。
つい先日、みあがともだちとボート遊びをしてその夜に電話するといったのになくて、翌日のわたしの誕生日にも連絡がなくて、電話をしても応答なし。
これはおかしい、湖でおぼれているのではないかと夫はまずみあの家に行った。
あたふたと車の鍵をさらって家を出たときの夫の顔は、蒼白であった。
はたして、みあはわたしの誕生日を一日遅くに覚えていて、買い物から帰ってきてルームメイトと夕飯の支度をしていた。
ルームメイトのケイトリンが窓から、表に停まっている車に夫が座っているのを見つけた。
みあの姿を外から見つけた夫は安心してしばし運転席で煙草を吸っていたのだ。
それからゆったりとドアに歩いて、ママが心配してるから電話をしたほうがいいと言ったそうだ。
みあの電話のバッテリーが切れたのが応答しなかった理由に過ぎなかった。
みあがうんと小さかったころ、アイスリンクで転んで、一瞬応答がないのに、夫はパニックもパニック、膝まづいて、”Help! Somebody Help!!!"と大声で叫び続けて、辺りがしん、と静まって、みあがぱっちり目を開けて、なんでもなかったのだけれど、あのときのことは忘れられなくて、思い出してはおかしい。
親というのはそういうもの。
わたしがいくつになっても、帰国するたびに、母は”浚われなさんなよ(誘拐されるな)“と言っていた。
孫ができて、ますます、そう言っていた。
わたしに白髪ができる年齢になっても、わたしは父母にとっては、こども、であった。
by ymomen
| 2024-07-23 00:38
| アメリカの季節
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