2024年 07月 16日
自分で選んだ宗教 |
きのうみあがキリスト教の洗礼を受けた。
誰かに勧誘されたとか、急に神がかりになったとかというのではなくて、ある若者たちの集うひとつの場所がみあには心やすまるところで、彼らの共通項のひとつが信仰であった。
こどもが産まれて、キリスト教の洗礼を受けさせることを、夫の叔母から強く勧められた。
夫は生れて間もなく洗礼を受けているが、それだけのことで、教会にも属していない。
こどもらを洗礼させるからには、母親のわたしも信仰についてじゅうぶん理解していなければ無責任だろうと、まず自分が洗礼を受けるのが順序ではないかと躊躇し、それでは、と素直にも思えず年月が経った。
宗教に対する迷いや疑いを経て、24歳のみあはキリスト教を選んだ。
夫は幼いうちからこどもたちをキリスト教に導かなかったことを後悔しているけれど、みあは自分で宗教を選択できてよかったと言う。
従弟たちが宗教の決まりの多い家庭に育って、親に、教会に反発してきたのを見てきている。
みあの属する教会には、ステンドグラスもキリスト像もない。
神父もいない。
ごくごく質素だが清潔で明るい、祈るひとのためのシェルターという感じの場所だ。
厳格で信心深い家に育ち、そこから逃げ出して、信仰からしばらく離れてここにたどり着いて信仰を取り戻した人もいる。
信仰のあるひとは強いと思う。
生家には菩提寺はあっても、仏教が自分の宗教と言えるかと問われれば、それは成長の過程で身につけるモラルとか価値のようなもので、というふうに淀んだ応えしかできない。
家族の安全を祈るときには、釈迦にというよりは、亡くなった親や祖父母を想って手を合わせているのが現実だ。
日本の時代ものの映画やドラマで、切腹で恥や罪の責任をとるのは潔いことであるというふうに解釈していて、その精神、あるいは選択が、現代社会でも自害というかたちで当人は”解決”する場合がある。
わたしも過去にそういう迷いをしたことがあった。
逃避であって、問題を解決する手口ではない。
逃げるところをどこも塞がれて、解決もできなくて力尽きた人をなじらないが、救えるものなら救いたいではないか。
自分に信仰があったら違っていたか。
みあとあきらが試練に置かれるとき、存命しながら解決法を見つけてくれることを強く願う。
わたしも夫も、いつまでもここにはいられない。
ゆるぎない信仰が、みあの生きる道しるべになるといい。
*****
あきらが夜遅く電話してきた。
13時間働き通しで、くたびれているけれど、晴れ晴れとした様子だ。
引越し屋のアルバイトを始めたのだ。
なかなかアルバイト先が見つからなかった。
体裁や恰好にこだわる質だから、選り好みしているのではないかと思っていた。
なりふり構わず労働しているのが頼もしい。
by ymomen
| 2024-07-16 02:02
| アメリカの季節
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Comments(2)
我が家も主人はプロテスタントらしいです(笑) 子供たちは神(キリスト)を信じているそうですが、洗礼を受けるという考えは無さそう。
ミアさんはご自分の意志で選んだ行動ですから、おめでとう!とお伝えください。
もめんさんのおっしゃる通り、信仰がある人は強いなぁと実感することがあります。
自分の宗教ばかりを主張せず、他宗教についても理解を深めることも重要だと思います←そういう人たちと多く接して疲弊したことがあります(笑)
ミアさんはご自分の意志で選んだ行動ですから、おめでとう!とお伝えください。
もめんさんのおっしゃる通り、信仰がある人は強いなぁと実感することがあります。
自分の宗教ばかりを主張せず、他宗教についても理解を深めることも重要だと思います←そういう人たちと多く接して疲弊したことがあります(笑)
2
meekさん
ありがとうございます。
自分の信仰だけが正しいというひとといるのも疲れるし、信仰を押し付けられるのにも辟易します。
本来の信仰をねじまげて別のものに変えて冒涜しているのもまた恐ろしいと思います。
ありがとうございます。
自分の信仰だけが正しいというひとといるのも疲れるし、信仰を押し付けられるのにも辟易します。
本来の信仰をねじまげて別のものに変えて冒涜しているのもまた恐ろしいと思います。


