2024年 07月 03日
Divine Secrets Of The Ya-Ya Sisterhood |
”Divine Secrets of the Ya-Ya Sisterhood"
Rebecca Wells
この本の存在を知っていたのに、魅かれなかった。
アリソンに勧められて、朗読を聴いた。
この表紙を何度もあちこちで見ていたから、食傷気味であった。
総じて女ばかりがつるむ話は軽々しいものが多いと思っていた、という本心は非難されそうだ。
プランテーション
ぺカン
スワンプ
葛が覆う樹々、苔の垂れさがる樹々
アリゲーター
アイスティー
コーク
ピーナッツバター・ジェリー・サンドイッチ
化粧品の訪問販売
縞の水着
タバスコ
ザリガニ
シャーリー・テンプル
風と共に去りぬ
線香花火
蛍
ファッジ
狂気
後悔
愛
憧れ
焦り
苦悩
迷い
孤独
アルコール中毒
精神の病
屈辱
戦争
すべてが詰まっている。
アメリカ、ルイジアナ州が舞台で、バイユー(Bayou)訛の朗読が愉快である。
バイユーとは、テキサス州ヒューストン、アラバマ州モービル、ルイジアナ州ニューオーリンズに繋がる湿地帯で、ケイジン、クレオール文化で知られる。
そこに暮らす人々の言い回しは、湿地帯の泥水かモラシスのようにとろりとしていて、魔術を唱えるような魅力がある。
間延びしているような口調だから、倦怠感を漂わせながらも、常になにかに興奮しているような活気もある、いつまでも聴いていたい音楽のようだ。
バイユーの人たちは、というのは、それだけであの一帯に住む独特な人種、という意味合いを持っている。東海岸のひとたちにもある種の特徴があるように。
バイユーにはフランス語を話すカナダの南東部から、あるいはヨーロッパからのの移民を祖先に持つ者、奴隷制度から解放された者が棲みついて、独特な文化を創造した。
バイユーにはザリガニの住む沼地のような泥臭さも、底抜けの明るさも同居する。
大学時代のクリスマス休暇に、わたしはともだちとふたりでニューオーリーンズを訪れた。
初老のタクシードライバーは、生まれも育ちもニューオーリンズで、まるでほかの土地など存在しないかのように、バイユーに住んでいる恋人の話をした。
わたしたちはまだ二十歳そこそこだったから、そんな話をされても困るのが普通だが、いやらしさも不快感もなかったのは不思議であった。
クリスマスイヴのニューオーリーンズは観光客もなく、ひっそりとしていて、やっと開いているクラブを見つけたら、ゲイクラブだった。
その正体に気がついたのは暗闇のなかでよく屋内を観察してからのことで、同じ境遇で迷い込んできたドイツから遊びに来ていた青年ふたりと話し込んで夜がふけた。
そんなクラブに集まっていたのは、クリスマスだからと家に帰れないひとたちだったのだと思う。
あのころはまだそういう時代だった。
いまでもそういうひとも家庭もあるのかもしれない。
いつも携帯電話に朗読本をダウンロードしていて散歩やジムで聴いているが、ときに聴いていられないほど不愉快な朗読もある。
原本は良いのかもしれないが、男の読み手が甲高い声音で女の会話を真似ているのは滑稽を過ぎてグロテスクで、むかむかしてきて中断する。
女の読み手が、不自然に声を低くして男の話しを真似ているのもある。
が、この読み手はいい。
Judith Iveyと読み手の名前さえも明記されている。
訛だけではなくて、時代やその地方独特の言い回しが、おもしろい。
読み手の魅力のせいで、彼女がほかに朗読している作品を探すなんて初めてのことだ。
1930年ごろからこっちのアメリカが描かれていて、主人公(シダ)の母親(ヴィヴィ)とその女友達の少女期から結婚後も途切れない絆を描いている。
わたしの母の世代である。
シダにはヴィヴィに対して少女期にさかのぼる生傷もあるが、彼女が40歳になり、母親たちの物語が彼女の劇場監督として作品化することによって、その傷のかさぶたをはがされても、やがてやっと母という人間を理解する。
母親、祖母に続いた忌まわしいサイクル、あらゆる言い訳を、シダがついに断ち切るのが清々しい。
母にこんなともだちがいたらよかったのに。
引退して引っ越して知り合った近所のともだちがそれに近かったかもしれない。
ヴィヴィらはときに度の過ぎた冒険もやらかした。
夜中に申し合わせて市民の水源である浄水槽によじ登って裸になって泳いだのを見つかって、一晩刑務所に保護されたこともある。
互いの血をちょっぴり舐めて”Ya-Ya Sisterhood"として忠誠を誓う。
わたしはいまも昔も、独りでいることに慣れているから、こういう話を知るとちょっと羨ましい。
苦しいときに隠れていないで、恥も外聞もなく、泣きつけるともだち。
けれど、これだけ近しい仲間の存在があっても、ひとが経験する葛藤はあるし、孤独もあるのだ。
近しいひとの悲しみが、自分の悲しみを拭うハンカチになることがある。
母のこどもへの愛情は条件を伴わない無償のものだというのは常套句だが、感情にまかせてこどもを傷つけることもある。
そんなことは断じてなかったと言い切れる母がいるだろうか。
けれど、総じてこどもは親を許してくれているものなのだ。
わたしが渡米した1987年以前のアメリカを知らないが、1964年生まれのわたしの知っている日本と共通することもある。
たとえばテレビは夜更けになれば国歌を流して放送をお終いにしていたこと。
いまのテレビ放送は途切れることがない。
ウオルマートもスーパーマーケットもパンデミックまでは24時間営業だった。
テレビドラマのお終いには、つづく、とあって、話が完了すると、完、とかお終い、とかってブラウン管に記された。
お終いがあることを怖れるひともいる。
永遠の命を願うひともいる。
心臓のない陶器やガラス細工さえもいつかは壊れる。
花もいつかは枯れる。
だからこそ、命がある間、みんな懸命に生きているのではないか。
みあと、この作品の映画版を観た。
原作とはかなり違う雰囲気になっていて、がっかりした。
どうしてこんなスクリーンプレイに成り下がったのか。
バイユーの空気が感じられない。
原作を朗読したIvey女史の一割もそれぞれのYa-Yaのキャラクターが伝わらない。
南部訛もかすかにすぎない。
アメリカのよその場所が舞台でもかまわない作品にすりかわっていた。
ヴィヴィが単にわがままで壊れた家庭で育った被害者にすぎないように描かれているのが腹立たしい。
ヴィヴィの母親(バギー)が単に憎しみと妬みに凝り固まった魔女であるかのように片付けられているのも苦々しい。
二度続けて朗読を聴いたら、二度目の終わりにはベニエを食べすぎたみたいにちょっと胸焼けした。
by ymomen
| 2024-07-03 00:15
| 特別な本
|
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Comments(2)
ご無沙汰しております。
丁度昨日ルイジアナのスワンプツアーで湿地帯を見てきたところでした。アリゲーターちゃんは見た目はかわいいですね。なんだかうちの犬が泳いでいる感じです。それと住人の家々がなんとも独特です。ほとんど家族代々住み続けているそうですね。
それから夕食はここのザリガニやエビ、ソフトシェル専門店で頂きました。隣りのテーブルのお客はよく利用するらしく、料理はさすが南部的ですね。
丁度昨日ルイジアナのスワンプツアーで湿地帯を見てきたところでした。アリゲーターちゃんは見た目はかわいいですね。なんだかうちの犬が泳いでいる感じです。それと住人の家々がなんとも独特です。ほとんど家族代々住み続けているそうですね。
それから夕食はここのザリガニやエビ、ソフトシェル専門店で頂きました。隣りのテーブルのお客はよく利用するらしく、料理はさすが南部的ですね。
1
オイカワさん
お元気そうで何よりです。
過去記事をずらりと読んでくださってうれしいです。
わたしたちもそのツアー、みあがごく小さかったころに行きました。
みあがアリゲーターの赤ちゃんを両手にのせている写真があります。
スワンプに住む人たちの家までは実際に見た記憶がなく残念です。わたしから見ればもの珍しいけれど、不便もあるのでしょうね。
大量の茹でたザリガニを始めて食べたとき、こんなにおいしいものがあるのかと感激しました。
南部に憧れるけれど、湿度と蚊のつきまとう気候も息苦しいような気もします。
お元気そうで何よりです。
過去記事をずらりと読んでくださってうれしいです。
わたしたちもそのツアー、みあがごく小さかったころに行きました。
みあがアリゲーターの赤ちゃんを両手にのせている写真があります。
スワンプに住む人たちの家までは実際に見た記憶がなく残念です。わたしから見ればもの珍しいけれど、不便もあるのでしょうね。
大量の茹でたザリガニを始めて食べたとき、こんなにおいしいものがあるのかと感激しました。
南部に憧れるけれど、湿度と蚊のつきまとう気候も息苦しいような気もします。


