2024年 04月 22日
”鈍(どん)なことをした” |
ここでの生活はほぼ英語。
愛犬に話すのも英語。この仔たちは英語しか知らないと思うから。
予期しなかったことが起きた咄嗟、ふるさとの言葉で対応することがある。
自分という生き物の、いちばん底にこびりついていて、一生剥がされないものを呼び起こすみたいに。
インクをこぼした時、鍋底を焦がした時など、”鈍なことをした”と、自分を呪う。
鈍を、”どん”と発音する。
愚かなことをしたという意味で、わたしのふるさとに特有の表現であろうか。
ほかの言い方では、ちっぽけな粗相でも、自分にとってはこれほど言い当てた表現はないと思う。
祖父母と父母がそういう声音がいまも頭のなかではっきり再生している。
ひとが失敗したときに責めるときにではなくて、自分がたったいま犯した結末を悔やむとき、そう言ってなかったか。
こういう場合、多くのアメリカ人は、短い言葉で悪態をついたり、あるいは神がかりな言葉で憂さを晴らす 。
後者の場合、粗相をいまいましいものだったとそそくさと忘れてしまうのに対して、わたしの”鈍なことをした”という呟きはいちいちそれに反省する段階があるような気もする。
ここで暮らす年月は、祖父母や父母の傍で慈しまれた年月よりもはるかに長くなってしまったが、わたしの根っこは変わらないどころか、むしろわたしのなかの彼らの居場所が大きくなっているようでもある。
こんな言葉がほかにもいくつかある。
いま書き並べようとしても思い浮かばないが、それらの言葉にそぐう”事件”が起こるとき、かるた合わせのようにふるさとの言葉がこぼれると、そのたびに仏になった親の声を聞く。
ひとつ思い出した。
”せからしい”
”せせろしい”
会えば自分や自分のこどもの話ばかりをして、ひとの話を聞かないどころが、ひとの話を横取りする、けたたましい無神経なひとや事態を、そう形容する。
”しちめんどくさい”
という表現も、あっさり片付けられるものごとに理屈をこねたり、虚飾でごまかそうとしているのを嘲る言葉で、これはわたしの故郷に限らないようだが、父が頻繁に吐いていた言い回しだった。
この言葉が頭の中で再生される頻度が多いのは、そういう批判をそれだけしょっちゅう何かに対してしているということで、気難しい性格になってきたのかな。
*写真は、わたしの住む寂れたダウンタウンにある宝石店の表構え。
看板の上に鎮座しているダイヤモンドは、回転する仕掛けになっている。
わたしがここに移り住んだ80年代の終わりから変わっていない。
はす向かいにはウールワースという、ソーダファウンテインのあるドラッグストアもかつては、あった。
街の反対側に用事があって帰途につくとき、この店のある道で信号待ちをする。
この看板を見るたびなんとなく心が休まる。
コロラドの眩しい日差しを受けて回転するダイヤモンドがとぼけて反射している。
時代遅れの己の滑稽さに似ている気もする。
by ymomen
| 2024-04-22 01:14
| 思い出
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