2023年 11月 17日
書くこと、書けないこと |
わたしにとってのブログは、自分のありのままを記録するところ。
こどもたちへのラブレターという思いも変わらない。
これを彼らが読む日には、わたしのアルバムを開くように、わたしという人間がわかる、彼らが生まれ育った水の味がよみがえるというところにしたかった。
いつかこれを読んだこどもたちが、ママかなあ、違うなあ、偽ってるな、と感じるのは嫌だ。
ぼんやり霧のような、というよりは、輪郭のしっかりした存在として彼らの意識に残りたい。
わたしがこの世からいなくなったときに、このブログを読むのが墓参りの代わりになるといい。
位牌も遺骨もなくていい。
だから、母のわたしがどんなことを考えていたのかということも伝えたい。
でも、一応は公の場にあることだから、ひとさまに不快な思いをさせてはいけないとも懸念するけれど、自分が信じていることならば発言すべきだとも思う。
住む場所によって、そこで吸収する体験と情報によって、考え方が異なるのは当然のことだ。
例えば戦争のこと。
罪のないひとが巻き込まれるのは双方に同様にむごい。
兵士だって、本人たちみながひとを傷つけたくて戦っているかといえば、そうではないだろう。
どうしてこんなことになったかというと、今起こっている現状の引き金になったことよりも、歴史を遡って考察すればその根源まで行きつくまでには経過を含めて、ああそういうことでしたか、というふうには、わたしの頭では理解できない。
事情を理解したくて、文献を読めばわかるかというと、新しい事実を知って、どうしてそういうことになったのかという文献を探せば、また知らなかったことが出てくるから、ますますわからない。
だから、よそさまが提言することにそうだそうだ、と同調できないこともある。
自分の体験をある程度告白するのは、それをある物事をこうだと決めつける道具にせず、ひとつの私見としておくならいいのではないかと思う。
こどもたち自身の成長過程にこういうことがあった、という事柄を記録しておきたいという思いもある。
こどもの記憶に収まり切れなかったことがあったはずだ。
わが身のことも、日本語を読めない夫がこのブログを絶対に観覧しないから、書けることもある。
かと言って、あまり生臭いプライベートなことは、みっともないからひかえている。
ブログを始めてから、書けなかった間もあったけれど、過去の投稿を読み直して、忘れていたこともありながら、自分の変化が認められても、好きなものや信条は変わっていない。
いまよりなお拙かった自分の軌跡を読んで、ある意味、それはいま新しい細胞に代ったいまの自分とは別人でもあるかのように傍観していられる。
いつか残した古い足跡のはずなのに、またそこに戻っているということもあっておもしろい。
ここに戻って来てほぼ一年になるが、それ以前の輪とは別の輪にだんだんと馴染めるようになったことをありがたく思う。
以前のわたしは、直立した自分のつま先ばかりを見て投稿していたようだ。
いまは、歩いているつま先が着地するところが見えるつもりでいる。
by ymomen
| 2023-11-17 01:32
| アメリカの季節
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